Fairy Tale １０
左手。
あたたかい何かを抱いていた、左手。
あたたかいものはなくなってしまったけれど。
それでも、わずかにぬくもりの残る。
俺の、左手。
ふ、と、意識が浮上した。
浮上したように、思った。
背中に感じるのは、シンの作ってくれた、干草の寝床ではない。
空気には、獣の匂いはかけらもない。
そこは、シンとアスランの「家」ではなくて。
あの、やさしい獣の気配は、まったくなくて。
ああ、とうとう棄てられたのだと、アスランにはわかった。
ずっと覚悟していたことだから、もう酷い衝撃はなかった。
以前感じた悲しみも惨めさも、もうない。
あるのは、ただ、深い空虚だった。
その空虚の中に、動かないはずの右手を伸ばす。
その手を、冷たい手に取られて。
アスランの意識は、やっと、確かに覚醒した。
そこは、ひどく心地良い場所だった。
あたたかくて、気持ちよくて。
だから、ひどく現実感がなかった。
滞っていた血の通う、むずがゆい感覚に、これが現実だと訴えられても。
そう。現実は、左手の大事だったものと一緒に、もう、どこかへ行ってしまったのだから。
アスランを棄てて。
「・・・アスラン？目、覚めた？？」
やさしい声。どこかで聞いた。
無意識に力のこもった、目蓋が開くのが不思議だった。
ぼんやりとした視界に、やがてはっきりとする紫の瞳。
「キ、ラ？」
「うん。そうだよ」
なら、やはりこれは夢なのだろう。
大好きだったともだち。
遠い昔、アスランを置いて行ってしまったキラ。
その、つめたい手に額を撫でられて、もう一度、目を閉じる。
でも、夢を見るなら。
シンの夢が見たいな。
あの子を、両手いっぱいに、抱きしめてあげる夢が、見たいな・・・
動かないはずの右の指先が、ほんのわずかにひくんと震える。
それを、紫の瞳が、じっと、見ていた。
キラの知るアスランは、とても快活でやさしい少年だった。
外の世界に慣れなくて、変なことばかりするキラに、たくさんのことを教えてくれて、そうして一緒に駆け回って遊んだ。
レノア小母さんはやさしい人で、その頃はもう、随分弱っていたけれど、それでもとってもきれいな人だった。
キラは、この親子が大好きで。
だから、近くで戦争があって、しばらく行けなくて。やっと行けた、その時に。
小母さんはもう亡くなってしまっていて。
アスランは軍に入って、戦争を、しに行ってしまっていて。
凄く凄く悲しかった。
こんなことなら、ふたりとも、攫って連れてきてしまえばよかったと、何度も何度も後悔した。
だから今、アスランがここにいてくれて、嬉しい。
血の匂いのする、右の手を取る。
この体は、少しだけだけれど生物の肉を摂取し、そうして、決して少しではない血を浴びている。
これだけ穢れを背負ってしまっていると、妖精の里（カントリー）の奥、みんなの住むところには、いられないけれど。
先祖がえりのせいで、里のはずれに住むようになったキラの家ならば、誰も文句は言わないだろう。
ここにいれば、もう、辛い思いなんかさせない。
こんな怪我なんかさせない。
絶望なんか、させない。
キラは、アスランがまた眠り込んでしまう前にと、小さく開いた唇に、汲みたての水を注ぎ込んだ。
妖精の里の奥より湧き、流れる水を飲んで、妖精は生きている。
そうしてこの水は、生きとし生けるもの全ての肉体を癒す力を持つ。
それを知っている者たちは、命に関わる怪我や病をえると、里の麓に現れる。
礼儀さえわきまえれば、妖精も、里より外へ流れ出た水を、汲み上げるくらいは許してやる。
昔、病をえたケルベロスを、里の麓に住まわせたこともあった。
半分人間のアスランの、半分人間の体に受けた傷ならば、きっとこの水よく効くはずだ。
半分妖精のアスランの、半分妖精の体も、もともとこの水を飲んで生きるはずだったのだから、きっと。
早く、良くなってね、アスラン。
そうして良くなったら、ぼくとたくさん話をしよう。
辛かったねって、慰めてあげる。
半分妖精のアスラン。
妖精の半分も、ちゃんと癒してあげる。
早く良くなってね、アスラン。
僕の、大切な友達。
アスランは、眠っていることが多かった。
たぶん、体は随分良くなっているはずなのだけれど。
人間も、心と体が密接に関係しているから、体が良くなれば心も少しは良くなるはずなのに。
それでも、やっと目を覚ましたアスランに、水を飲ませて髪を撫でて。キラは、彼を助ける方法を一生懸命考えた。
体が良くなれば。
そうして、話して、励ましてあげることができれば。
アスランは、すぐに良くなるはずだと信じていた。
また、昔のように笑い合うことができると信じていた。
それなのに、アスランは全然良くならなくて。
空ろな目は、キラを映しても、たったの一度も微笑んでくれなくて。
人の世界は、そんなに辛かった？
強くてやさしかった君が、こんな風になってしまうほどに。
「ん・・・」
「アスラン」
まだ起きているうちに、何かをしてあげたくて、キラはアスランの頬に、自分のそれを寄せた。
「アスラン、何か欲しいものはない？」
キラはアスランに付きっ切りだけれど、それでも双子のカガリが、キラほど丈夫でもないのに方々に出かけていくのが好きだから、手に入らない物はない。
「君の望みを、叶えてあげるよ？」
だから、ちゃんと目を覚まして。
僕を見て。
また、昔みたいに笑って。
ぼんやりとキラを見上げていた翠の瞳が、ひどく緩慢に瞬いた。
最近、やっと色の戻ってきた唇が震える。
そうして、思いのほかしっかりとした声が返ってきた。
「シンの夢が、見たい」
キラは言葉を失った。
「シンに食べてもらって、ずっとシンと一緒にいるんだ」
アスランの口の端が、かすかに上がる。もしかしたら、笑ったのかもしれない。
「両手で抱いてやって、骨まで全部。右腕も、だ。左も。両方で、抱いて。赤い目が、きれいで。痛い、くて。大好きなんだ。牙は白くて・・・あたたかい」
支離滅裂なアスランの言葉。
もう、治らないの？
君の心は、死んでしまうの？
「シンの、ゆめ・・・」
呟いて、今度は本当に、微笑む。
空虚な笑み。怖い。
それでも。
「シ、ン・・・」
彼が呼んでいるのは、あのケルベロスの子供だというのはキラにもわかった。
水のおかげでだいぶよくなった右手が動いて、何かを探すようにシーツを掻く。
その手を取ってやりながら。
「アスラン。あの子に会いたい？」
「違う。ゆ、め・・・・」
「どうして？」
「会ったら、だめだ。幸せになるんだ。シンは」
アスランは、笑っている。
瞳の奥に、どうしようもない虚無を住まわせたまま。
ただ、笑っている。
「キラ、お前も、幸せになったのか・・・？」
涙が出てきて、慌てて拭った。
「うん。幸せだよ」
「そ、か」
今度は。
ふわりと。
本当に笑ったアスラン。
何で君は、人のことばっかり。
だからキラは、また眠ってしまったアスランを抱いて、自分の家を出た。
あれから随分経っている。
きっと、里の外の雪も、融けただろうと思いながら。